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かんなん丸物語

『町角に一軒の店をつくることが、私の夢であり目標です。 』

埼玉県を中心とした、一県集中型の店舗展開

 平成25年3月、埼玉県さいたま市に「かんなん丸」は、「日本海庄や」の新しいお店をオープンした。昭和57年、さいたま市浦和区に開店した第一号店から数えて、102店舗目である。
 株式会社大庄が全国展開を図る「庄や」を、独自の発想でチェーン展開する「かんなん丸」の最大の特徴は出店地域を埼玉中心とし、そこから周辺地域へ広げていくという出店方法である。要となる地域に埼玉を選んだ理由の一つは、その将来性だ。
 全国第五位、720万人(平成22年国勢調査)の人口を誇る埼玉は、首都圏として今後急成長を遂げる県として注目されている。浦和駅周辺鉄道高架事業計画や武蔵浦和駅市街地再開発計画、越谷駅東口市街地再開発計画など多くの開発計画が進められている。さいたま市も平成15年に政令指定都市の認定を受け、周辺都市の開発も期待される。このように発展をつづける埼玉は、まさしく将来性に満ちた町といえる。
  埼玉を選んだもう一つの理由、それは創業者である佐藤栄治の埼玉に対する思い入れである。新潟出身の佐藤が東京と新潟を往復する際、いつも車窓から眺めていた町、浦和に対して、「文教都市」「優しい町」というイメージや憧れがあった。その思いが昂じて東京から転居。浦和という町がすっかり気に入った佐藤は、ここに第一号店を開き、これ以後の礎になった。
 埼玉の人々に温かく迎え入れられてもらい、育ててもらったという感謝の気持ち、少しでも恩返しがしたいという思いが、埼玉への愛着となったのである。

町角に揺れる黄色い提灯を、やすらぎのシンボルに

 「町角に一軒」―― これが「かんなん丸」の店舗開発の方針である。
「庄や」のシンボルである黄色い提灯。この提灯が深夜人通りも少ない暗い道端でぽつんと風に吹かれている光景が、佐藤は好きだという。暗い海から見た灯台の様に心をほっとさせる灯り。そこに行けばやすらぎの空間が、そして、美味しい料理と酒がある。静かな夜の町角に揺れる黄色い提灯が人々の心に灯り、安心、やすらぎのシンボルとなるならば最高だ。
 埼玉中のどの町に行っても、必ず人々がその黄色い提灯に出会えるようになればいい。くつろぎの場・社交の場となるような店を、町の人々のために提供していきたい。その思いが「町角に一軒」という出店計画を支えている。

「やすらぎの空間」を提供する店づくり

 くつろぎの場・社交の場としての理想の店舗を考えるとき、まず大切なのは、お客様が少しでも不愉快な思いをしないような店づくり、我が家同様にくつろいでいただける店づくりである。それが、佐藤の店づくりに対する基本的な考え方だ。
  創業当時から「庄や」では「ふるさとの田舎の香り」を連想させる「ぬくもり」の空間を演出するために、日本住居の原型である「四つ目住宅」様式を店づくりに採用していた。これは、店内を土間・いろり・座敷・奥座敷の四つのスタイルで演出したものだ。お客様の人数や、ご家族連れ・ご宴会・接待などの状況やニーズに合わせてご利用していただけるように、それぞれの空間が使う人の用途に応じて役割を与えられている。現在ではお客様の求めるスタイルにあわせ、土間・いろりは個室タイプへと変化を遂げている。

―――どんなお客様にも居心地の良い空間を提供する―――

 これが「庄や」のポリシーなのである。 このような店づくりが、老若男女あらゆる客層に受け入れられる「庄や」の背景となっている。誰もが心おきなく楽しめ、くつろぎ、満足できる。そんな雰囲気の中でゆったりと料理を召し上がっていただける店づくりが「庄や」の考える理想である。そして、その理想に基づき、実践していくことが自分の使命だと佐藤は考えている。

産地直送、新鮮な食材へのこだわり

 店づくり以上に大切なのは、お客様に提供する料理とサービスである。
 「庄や」が居酒屋ではなく「大衆割烹」を屋号に銘記しているのは「高級割烹に負けない食材と技術、サービスを大衆価格で提供する」という基本コンセプトによるものだ。器としての店づくりのみで競争しようとすれば、それは新しい店に一歩譲るしかない。飲食店の本当の競争は、使用する原材料とそれを最高の料理に仕立て上げる技術、そして心のふれ合うサービス、それしかないと佐藤は考えている。
 メニューの数を絞り、機器による工程管理によって、アルバイトが料理をつくるというチェーン展開の理論に逆らい「庄や」は板前による調理、つまりは「手づくり」にこだわり続けている。和食は手づくりによってしか最高の料理ができないという信念によるものだが、これは人のぬくもりや心のふれあいを大切に考え、やすらぎや感動・感激をお客様に感じていただくことを重視する「庄や」の姿勢なのである。
 「手づくり」にこだわる以上、新鮮な食材に関してのこだわりがどこよりも強い。「かんなん丸」では、業界最大手である「大庄」の傘下であるメリットを活かし、新鮮な食材を仕入れることが出来る。「大庄」では、野菜は産地直送の有機栽培のものを使用。魚介類に関しても朝獲れたものを、できるだけその日のうちにお客様に提供できるよう心がけている。また、新鮮な味覚を損なわない氷温冷却技術なども、業界に先駆けて導入するなど、食材に関してのこだわりは類がない。


「日本一のお通しを造ることができる」

 手づくりにこだわり、高級割烹に負けない技術を目的とする「かんなん丸」には180人を超える調理師資格をもつ社員がおり、各店に配属されている。しかし佐藤はまだまだ満足していない。例えば「お通し」。一見軽んじられがちな小さな一皿だ。この小さな一皿を大切に考え、創意工夫していく。その精神は全ての料理につながっていく。「そのお店で一番安い料理が旨ければ、その店の料理は全て旨い」という言葉がある。それを忘れずに、一皿一皿を大切に考えていきたい。それが「かんなん丸」の料理に対するこだわりであり、「日本一のお通しを造る」という考えにつながるのである。

サラリーマンからバーテンダーへ

 「艱難辛苦、我に与え給え。七難八苦、我に与え給え」。社名「かんなん丸」の由来となった言葉である。これは、創業者佐藤の人生観から名付けられた。
 佐藤は、進学のため故郷の新潟から18歳で上京した。その後故郷に戻り就職、サラリーマン生活を体験する。人と会話したり、大勢の人と一緒に仕事をしていくのが苦手だった彼は、その性格を克服すべく営業職を希望した。その経験から得たものは大きかったが、性格を変えるまでにはいたらなかった。そこで彼は、自分を見つめ直したうえで、本当に自分に適した仕事とは何かを考える。その結果、一人でもできる仕事として店を出すことを思いつき、28歳で再び上京。当時人気のあった、サントリーカクテルスクールのバーテンダーコースに学する。

夢が叶い、「炉辺」を開店する

 カクテルスクール、それが彼にとっての大きな転機となった。胸に志を抱いて学んでいた彼は、やがて、スクールの先生に認められ、銀座のクラブを紹介される。そこでバーテンダーとして働きながらも、やはり自分の店を持ちたい、独立したい、という夢は常に持ち続けていた。考えているところに助言を与えてくれたのが、銀座の店を紹介してくれたカクテルスクールの恩師だった。
 「大阪で流行っている『炉端』の店を出してみたらどうだろう」
こうして、佐藤の最初の店「炉辺」は、板橋で開店した。当時を振り返ってみると、ただ無我夢中で懸命に働いた。そして、それがとても楽しかったと彼は答える。その結果、店は繁盛。当時関東では珍しかった全品百円均一の炉端焼きの店は、マスコミにも取りあげられ、大成功をおさめる。

洋風居酒屋「にこらしか」へ

 そんな時、店を拡張しないかという話しが持ち上がる。すぐ隣の店舗で、条件は今と同じ、店の広さは一気に二倍である。彼は喜んでその話しを受けることにした。そこで三度、恩師の助言がある。
「今度は洋風居酒屋にしてみないか」
 彼としても、せっかく店を大きくすることでもあった。ここはひとつ新しいことにチャレンジしてみようと、きっぱり炉端焼きの店を閉じることにした。そして、広くなったスペースを活かし、お客様の増加を見越して、初めて調理場に従業員を一人雇ってオープンしたのが「にこらしか」である。
 現在でも十分通用するモノトーンのお洒落な雰囲気と、当時流行っていた洋風居酒屋という形式によって、この店も順調にお客様を獲得する。

一人のお客様も失いたくない

 佐藤は、一人のお客様も失いたくないという考えのもと、必死に働いた。それを物語るエピソードが「炉辺」時代にある。
 満席の店内、また新しいお客様がやってくる。普通だったら、「申し訳ありません、ただいまお席がいっぱいなんです」で終ってしまうところだが、彼は違っていた。
 「お待ちください、今、空きますから。当店の待合室へどうぞ」といって、なんとそのお客様を隣の喫茶店へと案内したのである。
 もちろんコーヒー代はこちら持ち、席が空きしだいお迎えにあがる。暑い中、または寒い中、お客様に待っていただくのは申し訳ない、その思いから生まれたアイデアで、彼は着実にお客様の心をつかんでいった。その心意気が、現在の彼をつくりあげているといえるだろう。

許すことの大切さを学んだ「大庄」時代

 昭和55年38歳のとき、佐藤は繁盛していた「にこらしか」をたたみ、「株式会社大庄」に入社する。「大庄」は、「庄や」「やるき茶屋」など様々な業態の外食チェーンを展開する業界の雄である。「大庄」に入社したのは、お客様に喜んでもらえる店づくりのノウハウを吸収するためであった。「大庄」では、埼玉の町に自分の店をつくるための効率的な運営方法や、フランチャイズの仕組みなどはもちろんのこと、それ以上の多くのことを学んだ。
 佐藤曰く、「大庄」で学んだ中で一番自分にとって大切だったこと、自分を変えるきっかけとなったことは「人を許すこと」を覚えたことだという。それまでの彼は、どちらかといえば、人と一緒に仕事をすることが苦手な性格であった。そんな彼が、独立して最初の店を持つとき、株式会社大庄の平辰社長にいわれた一言が、今でも忘れられない。
 「あなたは、一度人を嫌いになったらなかなか許せない人だ。でも、一人では店はできないんですよ」
 そのとき、彼は目が覚めた。人を雇うということは、そういうことなんだ。なんでも一人でできるわけではない。雇用関係は信頼関係だ。今まで自分に欠けていたのは、その寛大さだったのだと。店を大きくできるのは人材がいてこそだ。それに気づいた彼は、そのときまさしく経営者としての資質に目覚めたといえる。

従業員一人ひとりの資質を活かし、魅力を伸ばす

 佐藤の求める人材とは「いい意味の影響力のある人」だという。その人物がいるだけで雰囲気が明るくなる。活気に満ちる、そういう良い影響をまわりに与えてくれる人。そんな人材は、同僚や部下はもちろん、お客様にとっても大変貴重な存在だ。サービスに直結するのは人間性である。どの店でも、質の高い従業員が質の高いサービスを提供していけるよう、人間的に信頼のおける影響力のある人をこれからも増やしていきたいと考える。
 また、人材を活かすうえで配慮する点は、バランスである。一店舗あたり8〜20人の従業員が働く。そこでの人間関係、相性はとても重要だ。店長と料理長、その他の従業員の組合せによって、店内の雰囲気は良くも悪くもなる。そうした組合せに気を配りながら、それぞれの店の人材配置を決めていく。優秀な人材を発見し、その資質や魅力をいかに伸ばし、活かしていけるか、それが経営者にとっての大きな責任・課題であると、佐藤は考えている。

「町角に一軒」を支える「小さな本社」

 今後も「かんなん丸」では、年5店舗以上は埼玉を中心に出店していく計画だ。近い将来出店を考えている地域は、北赤羽・籠原・戸田公園・中浦和・越谷レイクタウン・東川口などである。
 埼玉という場所は、人口増加の面においても期待の持てる将来性のある土地だ。この地で、ぜひ「町角に一軒」の夢を実現していきたい。多くの人々にやすらぎを提供できる「黄色い提灯」を増やしていきたい。その思いが原動力となり、佐藤を動かし続ける。
 そんな店づくりを展開していく中心となるのは本社である。「かんなん丸」は、「小さな本社」にこだわっている。情報技術が発達した昨今、特に現場主義を掲げる佐藤にとって、本社の巨大化の必要性は感じない。店と本社を直結し、少人数で対応できるコンピュータシステムが理想といえるからだ。つねに現場第一と考え、臨機応変に行動するためにも、「小さな本社」であり続けることに、佐藤はこだわっている。

夢に向かって航海を続ける「かんなん丸」

 現在「かんなん丸」は、「庄や」の複合的な店舗展開として、うまいもの処「日本海庄や」、気軽なやすらぎ処「やるき茶屋」、カラオケスタジオ「うたうんだ村」、洋風料理「949」、旬菜・炭焼「炉辺」を出店している。
 「日本海庄や」は日本海の海の幸をふんだんに使った郷土・漁師料理をお手頃価格で提供している。「やるき茶屋」は若いお客様やご家族様など幅広い年齢層に愛されるようバラエティーに富んだメニューを用意している。「うたうんだ村」は、若い方からご年配の方まで幅広く楽しめ、様々な機会にご利用いただける場として地域に密着している。そして隣接する「庄や」や「日本海庄や」から料理を取り寄せることも出来る。「949」は落ち着いた店内で、料理はイタリアンを中心に、ドリンクはワイン・カクテル・焼酎など幅広く提供している。「炉辺」は当社の原点とも言える店舗である。新鮮素材を炭火で焼いた串焼を中心に、愛情がこもったお料理とおもてなしを提供している。このように、付加価値の高い楽しみ方を提供できる店舗展開を考えていくのが「かんなん丸」の方針である。
 「町角に一軒」。埼玉中の町角に、黄色い提灯が灯ることを夢見て、これからも「かんなん丸」は航海を続ける。船長である佐藤の指揮のもと、全社一丸となって未来へ進む「かんなん丸」は、人々の心にやすらぎを与え、憩いの場となり、しっかりと埼玉に根づいていくことだろう。

 それが佐藤の夢であり、目標なのである。





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